筒井康隆氏の慰安婦ツイートは、断筆宣言ならぬ「ナショナリスト宣言」ではないのか?

作家の筒井康隆氏(82)が4月6日、一時帰国していた長嶺安政駐韓大使が韓国へ帰任したことを巡って、自身のTwitterに、

「…長嶺大使がまた韓国へ行く。慰安婦像を容認したことになってしまった。あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」

と投稿しました。

これに対して、韓国ではいち早く非難の声が上がりましたが、日本では「筒井氏はこういう人だから」という論調が多く、真剣に非難する声は少なかったように思えます。


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筒井康隆氏の発言?に国内からも批判の声「差別を『タブーを破る過激な人』と称してほめそやしてきた」

http://www.huffingtonpost.jp/2017/04/06/tsutsui-yasutaka_n_15845280.html


筒井康隆氏は断筆宣言の折に、大江健三郎氏から「太ったカナリア」とたとえられました。

てんかん問題で糾弾を受けた筒井氏の、時代の空気を察して問題提起を起こしたことを、カナリアが炭鉱の毒ガスにいち早く気づくことになぞらえたのですが、筒井氏は今回も時代の空気を察して、問題提起をおこなったとわたしはみています。

ただし、断筆宣言のときとは正反対の意味ですが。

どういうことかというと、筒井氏の断筆宣言の前後に当時の言論界で起こっていた問題は、今でいうところの「ポリティカルコレクトネス」の押し付けでした。

西側諸国からの、猛烈なグローバリズムの風が日本にも押し寄せていたのです。

差別表現に対して弾圧ともいえる規制が行われ、「言葉狩り」とも呼ばれました。

「言葉を無理やり変えてしまうことで世の中が本当に良い方向に変わるのか」という疑問の声も、時代の波にかき消されました。

そういった中で、筒井氏が作品で「てんかん」を表現した際に、日本てんかん協会がクレームを出し、いよいよ表現規制についての問題が大きくなったのです。

たとえば時代小説で、大昔に、耳が聞こえない人に対して「耳が不自由な人」なんて言ってたやつがどこにいるんだ、というほとんどジョークのような議論も巻き起こったくらいです。

しかし今考えれば、なぜ筒井氏があのとき「筆を断つ」とまで言ったのか。

それは筒井氏がグローバリズムを是としていなかったからに他ならないでしょう。

翻して、筒井氏は当時から、ナショナリストとしての自覚があったのかもしれません。

それを決定的にしたのが、今回のツイート問題です。

「…長嶺大使がまた韓国へ行く。慰安婦像を容認したことになってしまった。あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」

この発言は、明確なヘイト(嫌韓発言)であり、大統領になる前のトランプ氏のような、アンチポリティカルコレクトネスの表明でもあります。

そして時代は、ナショナリストに与する流れとなっています。

断筆宣言当時の筒井氏が「断筆」を決意せねばならぬほど時代の向かい風を受けていたとすれば、今の筒井氏は時代の追い風を受けている、という点で、筒井氏は断筆宣言時とは正反対の意味で問題提起をした、というわけです。

”太ったカナリア”は、グローバリズムが押し寄せてきたときに危険を察知して叫んだのと同様に、今回「ナショナリズムの時代が来たぞ」と世間に伝えたのです。

ハフィントンポストの記事で書かれているような「タブーを破る過激な人」という単調な表現は、もちろん筒井氏には当てはまりません。

今回の筒井氏のツイートは、断筆宣言と比較して、「ナショナリスト宣言」とでもたとえられるべきことであり、その文章表現や筒井氏の人格の是非を問うだけでおしまいにできない問題を内包していると感じました。

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